昭和39年11月3日 夜の御理解
先日久留米の光橋先生がお願いに参りました。あそこにおかげ頂いている信者さんが、夫婦の仲が悪い、嫁姑の仲が悪い。そのお姑さんが毎日お参りをしているだんだんおかげを頂いていたのですが、又先日から、夫婦の仲に爆発した。そしてお前の様な者は死んでしまえといわれた。腹立ちまぎれ、本気で死のうと考えた。ところがご婦人が言われるのに、家の名前にかかわるような死に方をしたら、許さんぞといわれた。そこで色々考えられた。どうゆう死に方をしたら、あとあと子や孫にさしさわらん死に方ができるだろうか、考えに考えた末に断食しようと思った。「先生こうゆう訳で食を絶たせてもらいます。今日から断食に入らせて頂きます。神様にお届けしてください。」あんまり物すごいお届けに光橋先生よろよろ、たじたじしたわけですね。真剣そのものでお願いに来たわけです。
「よか修業ができよるね。」と私、本気で修業をはじめた。ところがです。断食をはじめさせて頂いてから、婦人の方がわからせていただいたことは、食を頂くということが、こんなに有り難いことなのか、一パイのコップのお水を頂くのがこんなに有り難いことなのか、今まで一パイのお水一椀の食事の上でも、有り難いと感じたことはなかったことを、一生懸命お詫びをした。五十何年前お生かしのおかげを頂いていたこと、それが食物のおかげで生きられていたことを一生懸命お礼を申しあげた。ところが大きな店なのですが、嫁さんが変わった、主人が変わった、もう死ぬのがもっったいないようになった。それで昨日またお届けに出て参りましてから、「先生大変なお届けをしておりましたけど、もう死なんでよいようになりました。第一主人が大事にしてくれるようになりました。嫁が大変変わりました。こうゆうもったいないことを、今まで分からずに、神様に改めてお礼を申してください。」 「よか修業だったね」
この神様はね心からお詫びが言えれるようになると、ぜんぜんちがった事から、ちがったおかげになってくる。おかげとはそんなもんだよ。この事を頂かんならんと一途に思うているのですけど、神様の願いはそんなことじゃない。あれもわからせよう、これも頂かせようとするのが、御神意なのです。お互いが信心させて頂いてから、今日山口県の萩の教会から、お参りなってこられた信者さんが、先生、これからがたのしみですね。自分のようなすたれ者が、こうゆう尊い御用に使こうて頂いてもったいないということが、分かってきたと言うておられます。そこまでわかるのが先生、一通りじゃありませんもんねとお話したことです。
いよいよ信心とは、自分自身のめぐりの自覚に立って、心の底から、こうゆう自分のような者が、尊い御用に使うて頂いてもったいのうてたまらん。有り難うしてたまらんということになって、まるまるさんの、断食修業じゃないけれど、死を決しての断食修業が思いもかけない方向になってきたと言うこと。思いもかけなかった人が助かっていくでしょう。思いもかけなかった人がお参りしてくるでしょう。萩の教会の場合です。私のような者がと口で言うたり、頭でわかっただけでは駄目。いよいよ断食をして人椀のご飯の有り難さがわかり、いよいよ一パイの水の有り難さがをかった実感が伴わなかったらね。本気で自分を空しくしようとする努力が、どんなに必要かわかるでしょう。自分を殺そうとする努力が必要であるかわかるでしょう。今私、御風呂からあがってきていますが、私の御風呂はぬるいもんだから、後は誰も入ろうとしない。家内が一人でブツブツ言っている。昨日の事らしいですよ。誰かが頭を洗ってから水を少なくしてから、ぬるい火もつけてなかったと不平不足をいっているのです。入るもんも入るもん、ちゃんとしとかなこて、こんなにぬるうしてからとブツブツ言っているのを聞かせて頂いて思うですね。それこそ家に風呂もなくて、よそに気兼ねをしてもらい風呂に行くことを思うたらです、そこにもったいないとか、有り難いとか、それは後に入った者の不行き届きもありましょうけど、ああゆうぎりぎりの時、私どもはお風呂のなど一生入ろうとも思っていなかった。私共がお風呂でも頂けるようになったことに、対してまちっと芯から詫びる心やら喜ぶ心やらが、生に実感的二です。頂けるようのならねばと私はかんじたです。これは神様が入るなとおっしゃるのだなと、と今日は入らぬ修業をさせてもらおうという気になったら、どうだろうと私は思いますね。これは一時に万事にそう。せっかく頂いたおかげをくやみよる。しかも二十四時間も前のことを改めて悔やみ返しよる。なんでぐちのおなごじゃろうかと、これでは助かりようがありません。信心とはですね、物やら金に不自由せんだけではないのです。おかげを頂いたら一切のものに不自由はいたしません。家内も私と同じように不自由はいたしておりません。成程、人のまねの出来ない修業もしよります。それで助かっとるのじゃないです。問題は私の心が有り難いな、もったいないなと、目をつぶったら金光様と唱えたら、その感激が沸いてくるようなおかげを頂かにゃ駄目です。今の私にどこに不平が不足がどこを押せば、そうしたおかげの頂けない心の状態にあるのか、ということをですね、自分という者を厳しく思うてみて、結局これを、喜びの中に追っても喜びがわかんのは、成程これはめぐりのせいだなというふに、その自分のギリギリのメグリに取り組んで、おかげを蒙っていかねば、いつまでたっても喜びにふれることはできない。ある方の事をお願いしよったら心眼にですね。数字の5という字を頂くのです。5とは業、メグリが深い。5の口のようなところを頂くのですその口の中へあれも入れたい、これも入れたいといやしいことばかり、いっぱいだと頂くのです。これで業の自覚なんかあったらおかしいでしょう。頂く資格も無い私共ですから、そこに頂かせてもらうのですから、有り難いもったいないだけにしかなってこないのです。業の自覚とはそんなものです。私の様に業の深い者はないと言っているけれども、その口にはいやしいことばかりしか、考えていないということです。これではこの人助かりようがないなと思った。光橋先生ところのご信者さんが本気で死のうと思った。そして断食修業に入られた。そしてわからせて頂いた事は、もったいないことであったとわからせてもろうたら、問題の方は解決してしまった。死ぬ必要は無くなった。改めてお届けの内容が変わってきたというようなおかげを受けられてきたんですね。おかげ頂かれました。